徒然、草w

とりとめの有ることや無いこと

待てば海路の日和あり

日本人は古来より「待つ」ということは美徳だと考えてきた。


待てば海路の日和あり、果報は寝て待て、など。


今日は友人と釣りをしに行った。


釣りも待つことが重要である。といっても自分は友人のを見てるだけだが。


自分は運転手である。運転の練習も兼ねて少し遠出をした結果である。


冒頭でも言ったが待つということは大変尊いことである。


だが、実際どうだろう、待つ時間というのは恐ろしく退屈で、陰鬱として、まどろっこしい物だろうか。


待てば海路の日和ありというが結果は一匹も釣れずじまいであった。


その後、もう一人の友人と合流し、惚気話を聞いたり、合コンで可愛い子と出会った話を聞いたりと少しの間話さなかっただけで話題というものは溢れてくるものだと実感した。


毎日会うような関係も素晴らしいが会わない時間に次会うことを待つというのも大事なのかもしれない。

現代非リア充学

さすがにあれだけではブログを続けてることにならないので、思いついたことを書いていきます。




自分はいわゆるオタクであり、非リアである。


女性にモテたことなどなく勿論、彼女もいたことが無い。


しかし、この世には女性を取っかえ引っ変えしている羨ま…けしからん輩もいる。


そんな人たちと自分のような人間の違いはなんなのか。


そんなもの挙げればキリがない。


自分磨きをしない、積極的に女性に話しかけない、趣味を最優先する、etc…


では、何故ここまで考えや価値観に隔たりがあるのか。


自分はここに欲求が関係していると考える。


自分が考えるに人間の欲求を三つに分けるとすれば食欲、物欲、性欲の三つに分けられる。


ここで言う性欲とは好きなものに愛情を注げたいという欲求のことである。


そして、この三つは三すくみの関係にある。


何か一つないし二つ欲が満たされている場合、残った欲を欲するという現象に陥る。


満腹の状態で欲しい物が手に入った場合、人間は残った性欲を求める、という風に私は考える。


性欲、食欲が満たされている状態では物欲が出てくる訳である。


この考えに基づくと、リア充と非リア充の違いが見えてくる。


ここでは、リア充とは彼女がいて、営みも行う関係であると仮定する。


ここまで書けば分かると思うが…




そう、リア充は常に性欲が満たされている状態にあるのである!!!


三大欲求の内一つが常に埋まっている状態なのである。


そして人間は一日に三度、食事をとる。


つまり、食欲が満たされている時間が大多数を占めることになる。


すると、残る欲は……物欲、である。


あの服が欲しい、靴が欲しい、アクセサリーが欲しい、etc…


勿論、趣味の道具などもあるだろう。


これについては後ほど書こう。


かたや、非リア充は逆に性欲が常に満たされていない状態にある。


リア充も同じく一日に三度、食事をとる。


食欲は満たされている。


となると、残りは物欲と性欲。


ここで、手動と自動に説明したい。


食欲などは食べなければ生きていけないので心情的に労力をあまり使わずに満たすことができる。


これを自動とする。


物欲は欲しい物があると店まで行き、買ってこなければならない。労力を使う。


これを手動とする。


彼女がいる状態というのは自動であると自分は考える。


確かに、彼女を作るまでは多大な労力を要したのだろうと思うが出来てしまえば一応安全である。


つまりリア充は三つの内二つが自動であり、残った労力を全て物欲に注ぐことが出来る、と考える。


リア充も食欲は自動、物欲は手動、では残りの性欲は?


手動である。


まず、自らオカズを見つけ周りに警戒を払い、などなど色々なことを考える。


これは、多大なる労力である。


残った労力を物欲にぶつける頃にはもう自分の趣味を埋めるだけで精一杯なのである。


では、後ほど書くと言ったリア充も趣味の道具などの物欲に労力を使うじゃないかという考えに対しては


リア充は三つの内二つが自動なので労力も余っているので趣味と自分磨きの両方に注ぐことが出来る、と考える。


一つ、言及しておきたいのが余った労力はこの三つの中だけで消費される訳では無い、ということである。


例えば、イキリオタクなどは彼女が出来て(本当かどうかは分からないが)性欲が満たされた結果、承認欲求の方に走ってしまっている。


リア充が性欲を満たしたいのなら彼女を作ろうと努力するのでは?と考える方もいるだろう。


全員が全員そう出ないと思うが非リア充の中では
性=SEXなのである。


脳みそ真ピンクである。


これが先行して外に行動に移してしまうと犯罪者の出来上がりである。


なので、内に内に秘めようとする結果出来るものも出来ない状態になる。


そうなると彼女なぞ夢のまた夢である。


すると、どんどんリア充との差が広がっていってしまっているのである。


これがリア充と非リア充の違いである。






ここまで長々と書き連ねたが何か書いてんのかいまいちよく分からんという意見が多数だろう。


結局こいつ努力してねぇだけじゃねえか。


全くその通りである。


すいませんでした。


殴り書きで拙い文章になりましたが最後まで読んでいただきありがとうございました。

ノアの方舟

本題に入る前に経緯から話そう。


三ヵ月前、自分は友人に連行され風俗店、いわゆるソープランドに行き童貞を卒業した。


その帰り、自分の車で来ていたので友人を家に送り届ける途中、時間でいうところの午前四時。


事故を起こして乗っていた車をスクラップにしてしまった。


そして、車が無い状態で今に至る。


そして今日、新しい車を納車した。







このブログを最初だけでも読んでいる人ならお分かりだろうが自分は只今無職である。


そして、今回は新車である。


つまり、契約は辞めるはるか昔に終わっている。


このブログの筆者である馬鹿は二百万を超える買い物があるにもかかわらず仕事を辞めているのである。


馬鹿である。ひたすらに馬鹿である。


大層なタイトルを付けたがただの馬鹿の話でした。


都合良く台風は来てるけど。

ぼうけんのしょ

このブログも四日目である。


正直三日坊主になるだろうと考えていたので継続できている内は頑張ろうと思う。


朝から上司が話があるとの事で会社に向かっていた。


取り留めもない話をしたあとロッカーを整理し、


一応ということで健康診断も受けた。


特筆すべきところは身長が伸びていたことと視力が上がっていたことぐらいだろうか。


結果はどこに送られるのだろう。



その後、喫茶店をやっていたが訳あって店を畳んでしまった知り合いが四年ぶりに新しく店を開いたので行ってみた。


とはいえ、最後にお会いしたのが八年も前なので覚えてくれているか不安だったがさながら勇者を迎える王のような「よく来たな、勇者よ。」といった感じだった。


また行こうと思う。


さぁ、それ以降の一日の話になるが…


寝てた、ただひたすらに寝ていた。


昼寝をし、夜寝をし、今に至る。


目が冴えきっているのに反比例して頭は溶けていて赤子も同然なので何も出来ない。


このブログを書き終わればすることが無いのでもう少し書き続けよう。


ブログもとい日記とはゲームのセーブに近いものがある。


その日、一日を振り返り、明日のデータへと繋げる。


ダラダラした一日をセーブせず続けると、次の日もだらけてしまう。


書くことに詰まったので今日はここまでにする。


ブログも人生もだらだらしてはいけない。


あまり、夜更かしして「昨夜は、お楽しみでしたね。」


と、言われないように早く寝よう。

発掘調査

昨日は何も無い一日と言っていたが、今日は友人と近くの喫茶店でモーニングをとってきた。


ニートになってから初めての外出であり、陽の光とは暖かく、なんと今の自分に刺さるだろうか。


そんな、昨日よりは中身のある一日のスタートであるが、いざ家に帰ればまた無味無臭無音無香無添加の始まりである。


それでは行けないと音楽の発掘調査を試みてみた。


決まった音楽しか聞かないような自分は誰かが聞いていた、とか、誰かがカラオケで歌っていた以外では自分で新しい曲に巡り会うことは無かった。


すると、どうだろう。


これまた、案外楽しい。


勿論、全てが全て自分の好みの曲ではないのだが自分だけがこの世でこの曲を知っているような優越感に浸れる。(勿論、再生回数を見ればそんなことはないのは一目瞭然だが)


反面、危険なのが今底辺の底辺をさ迷っている人間が自分は全知全能である、と思ってしまいそうになること。


ミイラ取りがミイラにとはまた違うが危険と隣り合わせの現状を調査対象と出来る明日にしたい。


P.S まだ欅坂の動画は見れていない。ごめんよ、友人

初日とは

今日はいわゆる、ニート初日だった。


朝起きて、朝食を食べ、洗顔、歯磨きを終えるとテレビを見たり、Youtubeで動画を見たり…




はて、ニートとはなんぞや?


自分は働く意思はある。では、ニートでは無い。


…そう。


これっぽっちも実感がわかない。


昨日は会社を辞めると言って朝に帰り、


明日は会社に行かなくてもよい。


では、今日は休みではないか!


そうではない。


虚無なのである。


勤めていた仕事を辞め、勿論、バイトもしていない。


かといって、ニート程堕落はしていない、働く意思もある。


では、自分は何なのか。


今日、自分がしたことを思い出せるだろうか。


気がつけば、昼になり、夕方になり、野球が始まり、野球が終わり、そうすると、もう寝る時間である。


次の日が仕事の日でもこんな日はあった。


しかしそこには、休みを無駄にしてしまった喪失感、
虚無感、焦燥感、色々な感情が渦をまいていた。


しかし、今はどうだろう。


凪である。


一陣の風も吹かず、波音一つ立っていない。


何も無いのである。


否、


何も、起こせなかったのである。


甘んじているわけでは無い。


焦っていないわけでも無い。


腑抜けてしまっている。といった表現が正しいか。


初日とはいえ、ここまで何も無かったかと自分でも驚くところもある。


本当の恐怖は、これが、明日も、明後日も、一週間後も、一ヶ月後も、一年後も、続いているのではないか、


そう考えると何が行動を起こさなくては。


大時化であろうが凪であろうが時は進み一日は終わる。


この凪に風を吹かし、波を起こすために、これからの人生という大時化の大海原を出立しよう。と、思う。